いずものブログ

自分の考えを残したいです

仕事を続けるということ

自分にとって勤める意味

入社してから数十年たち、いわゆる老害な存在として会社にしがみついている僕。労働者として労働時間を提供する僕。なんだか、思考停止になっていて、なぜ今の仕事を続けているのか分からない。つづける理由もない気がする。不甲斐ない自分の人生への言い訳として、自分の選択を他者が選択したかのように思ってしまう自分に嫌気がさしてしまい、現実を受け止めれない。

 

子供や学生の時に、労働が苦行であるのは考えもしなかった。仕事から帰宅し、子供も振り返らずにテレビを見て寝てしまう親、そのわりには子供に勉強を強要する親を軽蔑し憎たらしくもあった。しかし、仕事をしてみると効率が悪いせいか、はたまた仕事の選択を間違えているせいか、労働時間を費やし、帰宅後は就寝前に仕事を悔やみ、仕事に侵食されている。結婚してからは、お互いに時間を奪い合い、親になったからは時間を提供することが正義と評され、本当に自分の時間など皆無と思っている。だから、今となっては自分の親の行動も頷ける。自分の親も労働者であったから、自分の時間を捻出するため、子供に自動化を勧めたのだと思う。労働者であるからしょうがなかったのだと思う。

 

僕が就職してからずっと勤めることを苦行と捉え、人生を蝕まれていると感じているのは、よくある労働者の悩み事なのかもしれない。今、僕にとって勤める意味って、唯一の収入源だから無理を聞く場所で人生の貴重な時間を制限なく垂れ流しに提供することと同意だ。自分の意思は皆無だ。

 

仕事を続けることは利潤がない

自分にとって勤める意味は、収入のための労働時間の提供だと思う。また、労働者の利権争いに伴う横暴により、無造作に人生の貴重な時間を奪われてしまっていると思う。とは言え、なぜ数十年も一つの企業に勤め続けたか、旨味はあったのか整理してみると、こうやって会社に来れば無条件にお金が貰え、クビになるまではお金の需給が補償されることだろう。お金の補償が最大の旨味だ。後は狭い範囲ながらコミュニティができることだろうか。勤続年数が長いだけで、狭い中で序列の上位になれる。無思考で生きていける。ボーッと静かに生きていける。自分の人生に抗うことなく、静かに、静かに生きれる。

 

キャリアアップはできなかった。同じことの繰り返しだし、役職がついても突然能力が備わるわけではないし、自分の場合は仕事に潰されるだけで、満足できないんじゃないかなと思う。

 

とは言え、一握りでも自分の意思を貫き機会を生かして出世する人もいる。そういう使命感のような動機は今は少ない。キャリアアップが動機付けとなっていれば、一つの会社で仕事を続けるのはありだと思うけれど、大企業であれば、その機会を掴む人は一握りでしかない。僕はそれからは漏れてしまっている。

 

つまり、1つのカテゴリーで仕事を続けるリスクは、キャリアアップの機会は乏しく、その機会を逃すと自分の能力は向上しない。一方でその機会をものにするとキャリアアップとともに年収も上がる。

そういう、気付けば並みの人にとって、キャリアアップや年収アップを利潤とすると、仕事を続けたことは後悔はしても、恩恵を得たとは思えないと思う。

 

キャリアアップする勇気

自分のキャリアアップは人生の目的だ。でも今までのようにだらだら続けていては、今のまま。成長曲線は減衰するだけ。不満が溜まり、勝手に朽ち果てるだけだ。不満のストレスを自分が変わる動機付けにして、くだらないことやめて、人生の目的を達成したい。

サウザーさんのVoicey を聴いて

通勤の楽しみ

Voicey を毎日通勤中に聴いている。昨日は久しぶりにサウザーさんを聴いた。一時サウザーラジオのみ聴いていた。それは、サラリーマンの仕事や考え方、自分の生き方に強い懸念を持っているからだ。どうしても振り回されているような、ある意味自分で責任を取らず他人の責任を責める自分に嫌気がさしているからだ。サウザーさんは、サラリーマン=勤め人を卒業しようと独自のアドバイスをくれる。僕は刺激的で高圧的と言えるメッセージに虜になっていたんだと思う。自分も変われるって。

しかし、その内に変われない自分、勤め人を卒業できない自分を打ちのめされているように感じてきて、数ヶ月離れていた。

本当に久しぶりのサウザーさんだった。

 

染み出る教養

聴いたVoicey は、ある男性のDMを痛烈に批判する内容だった。ただそれは単にバカにするような低俗なものではなく、相手の個性に合わせた情熱のようなものだった。とても理論的な内容だが、視聴している僕を飽きさせないような書籍からの引用。素地が厚く深い。自分で考えてきた自信なのだと思う。この自信を偶像化し、憧れたり、見習ったりしてしまうのだろう。その知見の深さが僕は好きだ。

 

不安があるなら

書籍を読んで経験や哲学を擬似的にでも習得して、自分で考えなくては。逃げてつぶれて、錯乱する前に。書籍は最強の武器であり防具だから。

 

 

置き去りにされた自転車

通勤路にあった自転車

自転車通勤の僕。夜9時に会社を出て、ボーっとしながらVoiceyを聴いて元気をもらいながら自転車で家路を走っていた際に、ポツンと自転車を見つけた。幅の狭い自転車専用道路のトンネル内。トンネルといっても長さは10mもない。幅は1mくらい。そのトンネルの入り口に明らかに学生の自転車が置き去りにされていた。

 

何事?

誰もいない。周りには何もない。自転車専用道路は街外れにあり真っ暗だ。このトンネルの入り口だけは明るい街灯があって自転車が目立つ。とは言え、周りに人気はない。自転車には中学校のシールがある。シールの中学校は、ここから10kmはある。自転車だと一時間くらいだろうか。周りに何もないのだから、自転車盗難した人が乗り捨てたとしても、ここから街まで歩いて一時間くらい掛かる。ただ、このトンネルの上にはJR電車が走っていて、柵がない。まさか、中学生が死に場所を探しているのか。。。

 

捜索

自分の自転車からライトを外し、当たりを見回す。JRの線路は土手になっていて自転車専用道路から6mの高さにある。ライトを照らしてもよく分からない。土手には草が生い茂り足跡など見えない。闇夜と困惑で何をしていいか整理できない。自分1人。自分の行動1つで人命を助けることができるかもしれない。線路に上がるべきか。自分も電車に引かれてしまうかもしれない。偽善と正義が心の中で闘う。どうすればいいんだ。そうこうしている数分のうちに、電車が通過してしまった。。。無音の中、ゴーっという通過音が響いた。叫び声は聴こえない。よかった勘違いか。でも、もしかしたら、もう死んでしまっているのかも。。警察に電話した。

 

まとめ

警察には盗難自転車が置き去りにされているということを連絡し、すぐに現場に向かっていただいた。事件性は僕の妄想の中で事件性のないものであって欲しい。

今朝、現場に行ってみると自転車はなくなっていた。警察のかたが持っていってくれたのだろう。本当に何もないといいのだけれど。

 

僕は「中学生」「線路」「闇夜」というキーワードで困惑し行動を起こした。心の中では「偽善」と「正義」が分裂したようだけれど、つながりが見えなかった。この偽善と正義はどちらも理性だけれど、本能的な「無関心」に誘引されて家に帰りそうにもなった。トンネルから家まで数百m。家には家族がいる。相談もできたかもしれない。でも、自分で決めなかったことを後悔していただろう。何より自分の信念を行動できたのは、発見だった。また、妄想としても有事に遭遇した時の自分の行動を振り返ることができた。備えがない自分。自分の偏った思考と現実の整合性のずれに言い訳をして逃げようとする自分いた。

 

ちょっと前に自分の自転車が盗難にあって警察のかたに見つけていただいたのも、自転車を見過ごせない理由でもあった。経験を通じて優しくなり、感性が高くなった。今回の経験も自分の中の優しさに気付けたが、不足も発見できた。それは、信念のぶれにつながる知識だ。冷静の度合いは知識の深さに比例すると思う。知識量ではなくプロダクトミックスされた脳にクリティカルパスを形成する自念的誘導のようなもの、知識は材料でしかないので少ない材料で正しいか分からないけどベターな答えをすぐに出せる能力、それが不足している。経験こそ習得のはや道だけれど、材料が多いに越したことはない。読書や経験を通じて自分を成長させて、どんなときも信念を貫ける人でありたい。

ある飲み会から気付いたこと

中国からの来訪者参加の飲み会

会社に関わる中国からの来訪者と夕御飯を食べる機会があったのだけれど、そこから学べることがたくさんあった。本当に中国は聞いた限りだと夢のような国だと思った。

 

現金が必要ない

これは、ちきりんさんの書籍やブログにもある通り、何でも中国ではスマホで払う。路上ライブや、物ごいまでもがQRコードを持っていると書いてはあったが、都会でも超田舎でもアリペイでOK。中国人は便利が好きと言われてたけど、日本人にない感性なんだと思う。日本人だけ特殊なんだろうな。。さっさと現金なんてなくせばいいのに。

 

近隣の大国に無関心な日本人

接待という形だから、中国を誉めて誉めまくるのだけど、僕も含めて本当に中国のことを知らないようで、いかに情報に疎いか露呈した飲み会だった。これは、日本のメディアの情報操作というか見せ方、教育の偏りにより思考が偏っているためなんだと思う。旅行に行く可能性の少ない旅行先の情報は最小限に抑えるように、潜在的反中感情、反世界感情が抑止力となり、情報を取りに行こうとしていないんじやないかなと思った。とはいえ、周りに旅行好きがいないだけなのかもしれないのだけど。

 

老害

飲み会は、40代のマネージャークラスの人が多かったのだけれど、日本の情報を提供することがなかった。初対面だからというのはあるけれど、なんにもなかった。感性が死んでいる。感受性が特定の範囲、例えば仕事や家庭に集中し、興味の範囲が狭い。コミュニティが半径5mくらいに収まっているんじゃないんだろうか。それを効率かいいと言えるかもしれないけれど、人生はつまらない。僕はつまらない。話題がないのだ。つまらん話題しか。偏った情報が悪い訳ではないけど、障壁が高い。知らないの話をされても自分の興味が狭いから共通点を探りにくい。これは、例えば新人や同僚の感性や思考と共同する際の偏りや拡大解釈につながると思う。相手を自分の型にはめてしまう。個性をつぶす。知らないうちに抑圧するのだと思う。思考の型こそ老害そのもの。

 

まとめ

情報も世界を広げるけれど、体感して思考することが思考に複雑性を持たせて曖昧性を解消する。ないげない日常にも思考のヒントはあると改めて思った。

TOEIC

TOEIC

先週末数年ぶりにTOEICを受験した。英語の力量を可視化できるミラクルツール。テストは自分のパンドラの箱を開ける儀式、つまりある分野の知識の不足が露呈する面白くない試み。

事前に勉強せず、力量を試したのだから、結果を見るまでもないのだけど、やってみたのは力量の可視化が目的だ。

 

やってみた結果

やってみた感触はひどい有り様で、鉛筆コロコロに近い。雰囲気でマークシートに色を塗った。子供の色塗りと同じ。塗り終わって40分余ったので、見直そうと試みたけど、自分が塗った答えも選択肢の答えもどれが合ってるのかさっぱり分からない。

例えば「いつ行きますか?」に対して「それは犬です」と日本語で書いてあれば選ぶはずもないけれど、英語であれば、選んでしまう。英語に関しては無能と言って問題ない。ショボい。

 

自分を認めること

英語の切り口では、僕はショボい。そして、カッコ悪い。ショボいのを黙認し、周りに伝えているからだ。ショボいキャラの仲間を見つけて、ショボい仮想コミュニティを形成し、安心している。ただ勝手にあきらみているだけだ。

 

同じような欲望にボーっと生きている。忍耐力が低い。英語、筋トレ等々。やってない。続かない。

 

それは認めて目的と目標を決めて、始めるしかない。人生は短い。あっという間。

自分の成長曲線

成長曲線

自分の成長曲線を過去と未来で描いたときに、どんな姿になるのかな、今後はどうなるのかなと考えてみると、30歳から何も変わっていないのが分かる。また、2年刻みで考えてもさほど職責の範囲も変化がない。

これは、宮大工さんやお寿司やさんのように、ものすごい専門的なことを追及した結果ではなく、単に仕事がないからと自分の能力不足で仕事が回ってこなかったり、仕事を創出できなかったからだと思ってた。つまり、8割は自分の努力不足であると。だから、自分を責めてしまうことが多々あるのだけれど、それって大企業だからって思う。

 

チャレンジ=成長

チャレンジの定義って何?というのはあるのだけど、一人でやってみるような仕事はまず無い。職責の譲渡?委託?も小出しにあるのだけど、あくまでも部分最適の繰り返し。自分で書いた迷路を自分で少し書き直して、自分が迷い、ゴール見つけて楽しむ。空しいけれど、それが規律になっていて、守れないものは淘汰される。チャンスの切符を渡してもらえない。

ベンチャー企業NPOはどうなんだろう。仕事や採用された目的が明確(人手がないとか)だから、とっとと職責は強制的に分与されると思う。成長は失敗からしか学ぶ量が多いから、職責の拡大は経験と失敗からの学びの機会が増加するだろうから、成長曲線は計り知れない。40になってもマネジメントの経験も海外経験もなく、仕事の使命も一般解しかないような僕。大企業で仕事していることを自分の不甲斐なさの言い訳するつもりは無いけれど、福利厚生という大きな利潤を得るために失った自分の可能性は大きい。もちろん、僕がベンチャー企業に入っていたら人並みに生きいる保証など無いのだけど、レールに乗って外れるのに不安になるあまり何も自分らしく輝いたり足跡を残せたりできてない現実とこれからについて、どうしても悲観してしまう。

 

できるなら

中学生で田舎を出る決心をして、併せて何を自分がしたいか考える。情報って本当に大切で、何も取りに行かなかった、取りに行こうとしなかった僕は中学生で未来に希望を持てなかった。親や回りの大人は憧れにはならなかった。高等学校に行っても同じ。仕事を選ぶことに対しても真剣でなかったし、漠然と田舎は嫌だったけど、親の意見を跳ね返すほどの情熱を燃やしていなかった。

今なら中学生の自分に言える。田舎は悪いわけではないけど、情報を集中しない。だから、都会で情報を取得しよう。田舎はやっぱり既得権益の塊だ。それは親も塊の一部だ。だから、一度離れて自分をみつめなおそうと。全く違う世界で思考を捨てなさいと。

その節々の選択を自分で思考して結論を自分で出すために勉強をするのだと伝えたい。どうしても日本のルールで暗記ができる人が高等教育の機会が増えるので受験はやむ得ない状況であることを伝えたい。勝つためではなくて、自分らしく生きるために勉強する必要があって、そうしないと自分通りにはならない成長しない「もの」になってしまうよと伝えたい。

今の自分は残念だけど「もの」だ。幾らでも替えがきく。「もの」なんて嫌だ。周りも嫌だけど仕事に行ってるなんて言葉、自分は拒否したい。無駄に耐えたものだ。とはいえ、福利厚生や収入=安定を捨てて他に飛び付くのは家庭もあってやりにくい。でも70までの残り30年を成長なく過ごすなんて無理。そう気づき行動するきっかけから、チャレンジは始まるんだ。中学生の僕は、今の僕にそう言ってアドバイスをくれるに違いない。

自分の価値

自分の価値って値札がないから至極分からない。主観で能力を相対的に比較すると、負けてしまう。相手の良いところが目立つし、悪いところも具体性がないから比較の目安に触れない。例えば、相手が幸せそうに見えると、悪そうなところが見つかっても、幸せな状態が自分より遥かに良さそうに見えてしまう。だから、値札のない自分は誰よりも価値のないと認識してしまう。誰を見ても、自分の境遇よりはましだと思えてしまう。

 

価値

価値は相対比較で決まるので、基準次第だ。あなたと私ならあなたの勝ち。あなたの人生が勝ると感じてしまう。人生を負け戦として認識すると連敗続きで気力を失ってしまう。直接的に不満を出さない人は、自信を持って人生を生きているように見え、羨ましくなる。僕の価値とはなんだろう。僕の求めるものとは自分が勝っている姿。誰よりも優れている状態。優越感に浸れる状態だと思う。しかし、全ての人から認められることなんてできやしない。優越感だって張り子の虎のようなもの。そんなことは分かっているのだけど、満足感の全くない自分の人生は、何に満足できてないのだろう。自分の価値の根元はこの満足感を得ることができれば、価値ある自分になれるのだろう。