いずものブログ

自分の考えを残したいです

長男と長男の妻への要求

 日本のお盆って、とても非効率で生産性に乏しいと思う。なぜ、この必要性の低い慣習を執拗に続けているのか、理解できない。また、お盆中の長男と長男の妻に対する過剰な要求は何の自信から生まれるのか疑問だ。

 

 1946年以前は資産相続のルールとして親の年齢に近い子ども、つまり長男が相続することとなっていたようで、その頃の長男は資産取得によるお金を盾に、家族や村で社会的地位を獲得していたと思う。だから、長男というのは、家のシンボルであり代表、ボスであったと思う。

 1947年に日本国憲法が制定され、資産分与も兄弟均等割りに変わったにも関わらず、長男を抑えとけばなんとかなるという短絡的で簡素な考え方のみ残っている。今、資産を相続する立場の戦後のベビーブームに生まれた僕の親世代は、戦前の法律の元、個人の生き方や人権を無視したルールに洗脳され、それを自分の子どもにも強制しようとしている。洗脳された人を解放するのは、かなり困難で無理。本人が気付いてないのだから。

 社会的地位は長男や家というラベルではなく、個人の魅力や生き方が意味を成す今に、何でも長男にする意味はない。

 

 長男の妻に要求するのも、大きな間違いだ。戦前は、血縁のない人を不憫に扱うことが由とされていたのだろう。だって、若者は黙って聞けという時代。家に見捨てられたら生きていけない時代。

 今は当然妻にも人権があり、最愛は妻の実家だ。夫の実家はまさに他人。一定の距離を取ればいい。しかし、義両親の世話や介護が当然と思われている。

 

 こうなってしまうのは、親の人生観の欠如が原因と思う。親が自分て人生を生きようと考えていないからだ。問題を子ども任せにしているだけだ。自分の人生を生きてない。自分で決めて行動してこそ、生きるということだと思う。

 自分の子どもが成人したら、子どもから離れて、自分で資産運用し、自分で老後の生き方を決めればいい。意味のない要求を子どもに課せ、自分の手に囲い、洗脳し、自分は楽をして生きる生き方。子どもの人生を全く考えない生き方。そんな生き方を受け入れる訳にはいかない。ただの身勝手だ。

 

 とは言っても、老後に悲観的になる理由は分かる。死の恐怖感は計り知れないだろう。だからと言って、強制的に長男と長男の妻に労務を課すの間違いだと思う。結局のところ、自分の両親への義、徳があれば世話はするし、なければしないだけ。自分の親に情がうつらない子どもはいない。現実的には金銭の支援のみだったり、それさえもできない場合もあると思う。ただ、それは、子どもの生活の中で、親の生活の位置が相当に低くなっているだけ。経済的に自立しているなら当たり前のこと。

 合理的に両親の負担は兄弟で均等割りとし、両親は自分で人生を考え執拗に子どもに頼らず子を信じ、ある意味突き放し、死の恐怖心ではなく楽しく生きることに焦点を当てて生きる判断を両親がしてくれれば、どれだけの人が救われるだろうか。お盆に緊張感を持って帰省することも亡くなるはずだ。