いずものブログ

自分の考えを残したいです

自分の成長曲線

成長曲線

自分の成長曲線を過去と未来で描いたときに、どんな姿になるのかな、今後はどうなるのかなと考えてみると、30歳から何も変わっていないのが分かる。また、2年刻みで考えてもさほど職責の範囲も変化がない。

これは、宮大工さんやお寿司やさんのように、ものすごい専門的なことを追及した結果ではなく、単に仕事がないからと自分の能力不足で仕事が回ってこなかったり、仕事を創出できなかったからだと思ってた。つまり、8割は自分の努力不足であると。だから、自分を責めてしまうことが多々あるのだけれど、それって大企業だからって思う。

 

チャレンジ=成長

チャレンジの定義って何?というのはあるのだけど、一人でやってみるような仕事はまず無い。職責の譲渡?委託?も小出しにあるのだけど、あくまでも部分最適の繰り返し。自分で書いた迷路を自分で少し書き直して、自分が迷い、ゴール見つけて楽しむ。空しいけれど、それが規律になっていて、守れないものは淘汰される。チャンスの切符を渡してもらえない。

ベンチャー企業NPOはどうなんだろう。仕事や採用された目的が明確(人手がないとか)だから、とっとと職責は強制的に分与されると思う。成長は失敗からしか学ぶ量が多いから、職責の拡大は経験と失敗からの学びの機会が増加するだろうから、成長曲線は計り知れない。40になってもマネジメントの経験も海外経験もなく、仕事の使命も一般解しかないような僕。大企業で仕事していることを自分の不甲斐なさの言い訳するつもりは無いけれど、福利厚生という大きな利潤を得るために失った自分の可能性は大きい。もちろん、僕がベンチャー企業に入っていたら人並みに生きいる保証など無いのだけど、レールに乗って外れるのに不安になるあまり何も自分らしく輝いたり足跡を残せたりできてない現実とこれからについて、どうしても悲観してしまう。

 

できるなら

中学生で田舎を出る決心をして、併せて何を自分がしたいか考える。情報って本当に大切で、何も取りに行かなかった、取りに行こうとしなかった僕は中学生で未来に希望を持てなかった。親や回りの大人は憧れにはならなかった。高等学校に行っても同じ。仕事を選ぶことに対しても真剣でなかったし、漠然と田舎は嫌だったけど、親の意見を跳ね返すほどの情熱を燃やしていなかった。

今なら中学生の自分に言える。田舎は悪いわけではないけど、情報を集中しない。だから、都会で情報を取得しよう。田舎はやっぱり既得権益の塊だ。それは親も塊の一部だ。だから、一度離れて自分をみつめなおそうと。全く違う世界で思考を捨てなさいと。

その節々の選択を自分で思考して結論を自分で出すために勉強をするのだと伝えたい。どうしても日本のルールで暗記ができる人が高等教育の機会が増えるので受験はやむ得ない状況であることを伝えたい。勝つためではなくて、自分らしく生きるために勉強する必要があって、そうしないと自分通りにはならない成長しない「もの」になってしまうよと伝えたい。

今の自分は残念だけど「もの」だ。幾らでも替えがきく。「もの」なんて嫌だ。周りも嫌だけど仕事に行ってるなんて言葉、自分は拒否したい。無駄に耐えたものだ。とはいえ、福利厚生や収入=安定を捨てて他に飛び付くのは家庭もあってやりにくい。でも70までの残り30年を成長なく過ごすなんて無理。そう気づき行動するきっかけから、チャレンジは始まるんだ。中学生の僕は、今の僕にそう言ってアドバイスをくれるに違いない。