いずものブログ

自分の考えを残したいです

平均とばらつき

社会はたくさんのばらつきがある。例えば、成績、年齢、効率などなど。僕たちはばらつきに翻弄されている。書評が読み手の思考で良くも悪くも記述されるように、気持ちは視野、洞察、気分、背景などにより、ばらつきが大きい。一方、怒り、喜び、悲しみなど、誰もが共通の感情表現は平均といえる。くじ引いて当たったらだいたい喜ぶの、だいたいが該当するのが平均だ。

この平均とばらつきがある2つのものが同等かを検証するのは、統計解析を用いても難しい。あくまでもたぶん同じだと思うくらいしか分からない。この解析対象が増えると検証は困難を極める。対象が3個の場合は、超困難なはず。

 

仕事でばらつきに夢中になり、生産性が低下した。意味のないばらつきの検証を続けていた。

例えば同じものを別々の測定器で測定したとき、それぞれの測定器の測定結果のばらつきは同じと言えるだろうか。答えは検証できないが正解。

真値が分からないから、片方のばらつきが正しいかもしれない。それぞれのばらつきが数値化できること、簡易にばらつきの差を検証できるツールがあったこと、ばらつきを検証する意味を明確にりかいしていなかったことが、間違った要因。低い知識は大失敗を招く。

 

感情はどうだろう。経験則というお手軽なツールを使うと、何もかもが色眼鏡で見える。そして、無駄な検証を始める。比べても無駄なのに。同じことなんて実証できない。

 

人生の時間の浪費って、この平均とばらつきを無下に制御するのを試みているだけでは?

僕の仕事の失敗の原因は、理解不足による試験対象の選定違い。深堀が甘かった。

さらに失敗は続く。この仕事を家でしていたのだ。妻子は夏休みの最後の日曜日を満喫。しなくてもよかった仕事を終わらすため、1日を浪費した。

 

魅力的な平均とばらつき。問題、仕事、人生を惑わす因子。この答えのない因子を生き甲斐に生きるのは、あきれることばかりだけど、僕が生き延びれるのは、みんながこの因子を制御することの興味が尽きないからだ。この興味があるから人生が楽しいと思えると、透き通った時間を過ごせるのだろう。僕は、当面そんな気持ちにはなれそうもない。

人生の信念

 何気なく生きている自分の人生の中で、心の拠り所となっている言葉があると、言葉が思いとなり、生きる原動力になると思う。例えば、夢。憧れから芽生える夢は、言葉や思いを具体化したものと思う。そのような強い思いが信念となる。この力点が夢の具現化を担う。信念とは、信じ念じることであり、自分を信じることに他ならない。

 仕事をしていると信念が強くなり、やがて大成するような、やや膨張された話がある。多くの伝記など。しかし、自分が納得して続けたものは、失敗しても耐えられる、忘れることができる。だから、良かったことが印象に残り、回想録は華々しいのかも。もちろん、興行的な点もあると思うけど。はなしがショボいと伝記として成り立たないし。

 ただ、多くの人から見て、素晴らしいと言える人は存在していた、存在しているという事実はある。たとえ本人の言葉でなくても、歴史に名を馳せていなくても。誰だってその人なりの苦労はある。その苦難を乗り越えるかは、いつだって信念次第。

 

 

長男と長男の妻への要求

 日本のお盆って、とても非効率で生産性に乏しいと思う。なぜ、この必要性の低い慣習を執拗に続けているのか、理解できない。また、お盆中の長男と長男の妻に対する過剰な要求は何の自信から生まれるのか疑問だ。

 

 1946年以前は資産相続のルールとして親の年齢に近い子ども、つまり長男が相続することとなっていたようで、その頃の長男は資産取得によるお金を盾に、家族や村で社会的地位を獲得していたと思う。だから、長男というのは、家のシンボルであり代表、ボスであったと思う。

 1947年に日本国憲法が制定され、資産分与も兄弟均等割りに変わったにも関わらず、長男を抑えとけばなんとかなるという短絡的で簡素な考え方のみ残っている。今、資産を相続する立場の戦後のベビーブームに生まれた僕の親世代は、戦前の法律の元、個人の生き方や人権を無視したルールに洗脳され、それを自分の子どもにも強制しようとしている。洗脳された人を解放するのは、かなり困難で無理。本人が気付いてないのだから。

 社会的地位は長男や家というラベルではなく、個人の魅力や生き方が意味を成す今に、何でも長男にする意味はない。

 

 長男の妻に要求するのも、大きな間違いだ。戦前は、血縁のない人を不憫に扱うことが由とされていたのだろう。だって、若者は黙って聞けという時代。家に見捨てられたら生きていけない時代。

 今は当然妻にも人権があり、最愛は妻の実家だ。夫の実家はまさに他人。一定の距離を取ればいい。しかし、義両親の世話や介護が当然と思われている。

 

 こうなってしまうのは、親の人生観の欠如が原因と思う。親が自分て人生を生きようと考えていないからだ。問題を子ども任せにしているだけだ。自分の人生を生きてない。自分で決めて行動してこそ、生きるということだと思う。

 自分の子どもが成人したら、子どもから離れて、自分で資産運用し、自分で老後の生き方を決めればいい。意味のない要求を子どもに課せ、自分の手に囲い、洗脳し、自分は楽をして生きる生き方。子どもの人生を全く考えない生き方。そんな生き方を受け入れる訳にはいかない。ただの身勝手だ。

 

 とは言っても、老後に悲観的になる理由は分かる。死の恐怖感は計り知れないだろう。だからと言って、強制的に長男と長男の妻に労務を課すの間違いだと思う。結局のところ、自分の両親への義、徳があれば世話はするし、なければしないだけ。自分の親に情がうつらない子どもはいない。現実的には金銭の支援のみだったり、それさえもできない場合もあると思う。ただ、それは、子どもの生活の中で、親の生活の位置が相当に低くなっているだけ。経済的に自立しているなら当たり前のこと。

 合理的に両親の負担は兄弟で均等割りとし、両親は自分で人生を考え執拗に子どもに頼らず子を信じ、ある意味突き放し、死の恐怖心ではなく楽しく生きることに焦点を当てて生きる判断を両親がしてくれれば、どれだけの人が救われるだろうか。お盆に緊張感を持って帰省することも亡くなるはずだ。

お盆の目的って

 朝夕が涼しくなってきたとはいえ、日中は30度を越す真夏日。そんな暑い中、日本民族の大移動が始まる。今日は8/12だから、明日からお盆。前日入りで田舎に帰っている人もたくさんいると思う。どれくらいの人が帰省したいと思っているんだろう。連休として活用した方が、ずっと効率的だと思うんだけど。

 お盆の目的は、第二次世界対戦で亡くなった戦没者を鎮魂することと理解している。僕も田舎だったので、8/13から8/15は仏壇に先祖様が帰ってくるということで、家から出れなかった。お盆とは先祖を敬うことだった。まだ、子供だったので。信じ従うしかなかったので。

 お盆が今の民族大移動になってしまった経緯はさっぱり分からないけど、都会が楽しくて帰省したがらない娘、息子への切り札として、親から慣行されたものだと思う。信仰は科学的説明がつかないが、親の願いとなれば情も重なり、仕方なくでも帰省したのかもしれない。また、どのように通信技術が発達し移動が非効率であっても、生身の人との思い出が大切な人もたくさんいると思う。

 日本は日中戦争を発端に東アジアの占領を続ける。明治維新を機会に近代化を進めた日本は近代化に遅れた中国、韓国に対し、かつてイギリス、アメリカから受けた危機の反省を忘れ侵略する。また、白人に占拠されていた東南アジア諸国も手中に治めべく、表向きはアジアのヒーローとして、真意は日本王国の拡大として戦争を続けていた。10年余りも。そして、原子爆弾が落ち、日本は戦争に負けた。国のために死ぬことが使命とされていた戦争から一転、国から平和を推進されたのだ。

 おそらく終戦直後は親族や知り合いに戦争で亡くなった人が数多く、終戦の日のお盆の意味合いは今と大きく異なっていたのだろう。それは、先祖に感謝するというイベントではなく、戦争の反省と無念、亡くなった戦没者への愛情を伝える場であったに違いない。だから、お盆が大切なことも理解できる。

 お盆の帰省に抵抗感があるのは、単に経済的非効率性なことだけではなく、帰省者の心身的な負荷が最高位に達するからだ。結局見返りが少ない。全くない場合もある。この期待する見返りと亡くなった人への思いのバランスが取れない時、割りに合わなくなる。両親や故郷との関係が希薄で自分のことで精一杯だとなおのことだ。

 僕はなぜお盆に帰省するのか。それは、仲間外れになると後生で負担が増加することが考えられるからだ。仲が悪くて良いことは少ない。見せ掛けの忠誠とも言える。帰省しても感謝されることもないし、語り合うこともない。寂しいし、つまらない。しかし、親を大切にしたかが問われる。本当につまらない。

 お盆というある意味神聖な儀式と言えるものが、両親が唯一ものを申せる機会として湾曲されている。核家族化で両親が娘、息子を助ける機会が減り、両親と話す機会が減っている。

 本当に話したいなら、いつでも話せばいい。思いを伝えればいい。伝わらないなら手段を学習すればいい。双方が合理性を重視し、理論的に最適解を求めれるように進めばいい。

 お盆がどんどん嫌いになる。本来は好き嫌いでない。愛から来る労りの儀式なのだから。

家族の信頼関係

『奥さん、風邪で倒れる』

こんな題名の内容を書くと、男目線となりがちで、奥さんの代わりにいろいろできたから、「僕はすごい」「やる時はやる」と纏めたり、「奥さんがいないとダメだ」「日頃から助け合います」と宣言文になってしまう。主観が僕なので偏った世界になる。だから、まずは僕の曲がった考え方を整理したい。

『二面性』

僕の考えは古い。かなり古い。現代に合ってない考え方だと思う。自分の考えを全て押し付けている訳ではないけれど、心の奥で納得できてない僕がざわついている時がよくある。

父親は稼ぎ、母親は家庭を守る。互いに8時間は仕事をこなす。自分の時間は家事や家庭の世話が終わった後の余裕時間とし、基本的には家族に捧げるもの。

嫁ぐとは旦那の実家の物となること。子供は自分を捨てでも親のめんどうを診ること。

何がこんな思考を形成させたかと言えば、自分の意思で自分の人生を決断できてなかったからだと思う。流されて今に合わない思考でも常識とし、弾かれるのが怖いから目を気にして受け入れ洗脳されたり、反証できる代案が乏しいので受け入れたのだろうと思う。

自分が弱かったのが原因で、今も思考が停止している。

『たった3日の家事をして』

結局3日しか家事をしてないのだから、自然体でこなせばいいはずなのに、納得して実行できなかった。割りに合わない。目に見えた効果がない。時間の浪費。自分の仕事じゃない。否定的な言葉が続く。

たった3日で言葉が淀むので、入院や介護などのもっと負荷が掛かるものは受け入れられないと思った。
ただこの言葉群は整理した思考の延長の端に他ならない。

つまり、思考を変えれば、言葉や思いも変わり、行動が変わるはず。

『このままだと』

このままだと、人を愛せない。全てを効率性、生産性の物差しで見るし、自分のわがままを言うので、愛されることはないと思う。

表面的な愛情は家族は傷つけるので、関係はギスギスしていて続かない。思った通りにいかない現実に怒り、行動もおかしくなるので、信頼関係は築けないと思う。

また、本人は愛すことも愛されることもないので、孤立するはず。孤独を楽しめる人は稀と思うし、今の僕には無い感情なので、孤独で自暴自棄になると思う。

だから、今の思考を続けても良いことはないと思う。

『考え方が変われば』

考え方が変われば、奥さんや子供を大切に思えるし、与えたいと思える。人を好きになり、優しくなれると思うし、表面的に繕った笑顔ではなく、内から溢れる愛情で助け合う。

つまらないことで怒らず、互いを認める家族であれば、気持ちよく不安も少ない人生を過ごせると思う。

考え方が変われば、家族も本人も信頼し生きていけると思う。

『思考を変えるには』

良いと思うことをすれば、駄目な考えに侵されることはない。駄目な考え方を持つ人から離れる。忘れること、信念を持って良い行動を続けること。

論理的に展開できない事柄や規律は弱さを補填するための言い訳だと思う。
例えば「子供は親の言うことを聞くべき」「奥さんは旦那を敬うべき」は稚拙なもの。それを否定し、優しさの中から信頼関係を構築できる。

『奥さんの看病を振り返って』

利害関係などなく、本来は不満もないはず。愛しているならば。変に自分の枠に相手も納めようとしているので、与える愛(もの)と求める愛(もの)の温度差(深度の違い)を感じ、どこかで苦しくなった。

真理から少しばらつきのあるそれぞれの個性を認め、強制するのではなくばらつきの中で生きれるように、ストレスの少ない関係を作り続けたいと思う。

自分を愛したい

『喜べない自分』

 新卒で入社し20年経った時、自分を誉めたり、労ったり、悔やんだり。いろんな人がいるから正解はないけど、僕は悔やんだ。自分に、腑に落ちない怒りをぶつけた。

 

 なぜ?

 

 僕は自分を擁護するあまり自分を愛せないのだ。

 

 『楽しくない仕事』

 仕事の中で幾度と壁に当たり、落とし穴に落ちた。蟻地獄とも思えたし、砂漠で孤立した体験もした。でも、全ては僕の頭の中の虚像で、空っぽのはずなのに、ぬるま湯のように悪夢は芯に絡み付く。忘れたいのに忘れられない。周りの目線や評価が気になり、緊張し、行動ができなくなる。信頼できず、信用もされることもないと自分を責める。そうしている内に、僕は生き甲斐や仕事のやりがいの箱を開けては閉じを繰り返して、中身の隅を舐め回す。もっと美味しいものがないかって。何かが違う。こんなはずじゃなかったって、自分の存在を否定するのも繰り返す。

 それでは、この感情は異常なのか。この掴み所のない主観的な感情は何から来るのだろうか。吸い込む空気が喉で熱くなり、目の奥が痛む。生き苦しい。この数十年は無駄で何も成果もない。なんだったんだろう。なんのために生きているんだろう。そんな感情が浮かんでは弾ける。何でこんなに楽しくないんだろう。

 

『サラリーマンの本文』

  自責の念を繰り返し、職場と自分が重ならず、自分に社会不適合の烙印を課してしまう。サラリーマンは、社長の資本を公的規範の中で奪いとることが、仕事の動機のはずだ。この奪いとる行為を意識せず、仕事を自己実現レバレッジと無理に自分の目的をすり替えてきたけれど、これが仕事でやりがいを感じれない理由だと、最近噛み締めることが多い。この違和感が仕事のつまらなさを助長している。

 

『許容できない葛藤』

 さて、どうしよう。僕は立ち位置を間違えてしまった。会社に選ばれようと従順なり、言いたいことも言わず、残業して貴重な人生を消耗してきた。

 僕は自分に、20年を振り替えって、20年も頑張った。嫌なことも耐えてきた。でもこんなはずじゃなかった。頑張ったけど間違っていた。なんで僕は駄目なんだ。駄目だからこれからも駄目なんだ。なんでこんなに駄目なんだろう、と怒りで涙した。

 

『人生を定め直す』

 サラリーマンならば、このまま、攻撃的に奪い取る人生を選択し続けなくてはいけない。70歳定年の時代、こんな消耗戦を、後30年も続けなくてはいけない。僕には、この20年をまた繰り返すなんて、とても耐えられない。消耗し搾取され、金銭の価値も感じれない人生なんて死んでるのと同じだ。

 でも、僕は何も持っていない。仕事でしか個人を出す場がないのだ。だから、弱味に漬け込まれていると思う。僕には活躍の場が他に必要なのだ。

 この節目をきっかけに奪い取るのではなく与えることに捧げたい。寄付、ボランティア、今でもできることはある。固まってしまった考えを溶かし、自分が好きだと言える人生を歩んで行きたい。

 

 

GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代 (単行本)

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ジェフ・ベゾスの伝記を読んで

 Amazon は物を買うのによく利用している。家具、家電、食べ物、プレゼント、本。プライム会員になれば、送料無料で利用できるのはありがたい。アパートの立地も市街から離れているし、軽自動車しかないため、大物を配送してくれるサービスを活用している。

 私がAmazon を本格的に利用し始めたのはスマホを使い出したことと、頼る感情を持ち始めたことが大きい。ちょうど仕事が忙しくかつ家庭に目を向けることが少なくなった時に使用し始めた苦肉の策だった。頼わらざるえなかった。ものを見て買う拘りを捨てることになるが、利用してみると全てがスマートで商品もすぐ来る。店内をぐるぐる探す必要もない。なんて素晴らしいサービスだ。おそらくすごい人が、何かすごいことをしたのだろう。と、感動した。

 この本を読んで、ベゾスの輪郭とAmazon の軌跡が理解できた。他者より一歩先に出る才覚とインターネットの可能性を見出だした先見性。体力、技術、運を持ち合わせた個人と会社。旺盛に見える会社も、圧力を受けながらも、顧客の価値は何かという一点に目的を絞り、今があるのだ。私が思っていた頼ってもいい感情は、頼れるインフラのAmazon があったから芽生えたものではなく、潜在的に抱いていた不満、例えば買い物に付き合う時間のような不満、を誰も持っていたけど、解決策がなかっただけ。

 他人に与える手段として、法人として何ができるだろうか。会社に行けば権利として給料を自動的に貰う。会社や個人のビジョンを達成の対価の給料。でも、このビジョンの志しがスタートアップの会社は大きく異なり、それがAmazon を大きくした源泉だ。

 企業である以上利益は追求しなくてはいけない。でも、お客様第一として、顧客を神様として崇める風潮は理解できない。顧客の不満を和らげて、よいと思った物を選んでもらうことが大切だと思う。与える優しさと言うのだろうか、見返りなく与える美しさのような慈愛の精神の仕事が正しい。そのような仕事は医療や介護関係になりそうだが、Amazon のようなインフラといえる企業は、その命を果たしていると思う。

 ただ、偉業をなすのは一筋でなされない。何かをすると言うことは、そういうものだ。問題は何もしないこと。勉強し、機会を洞察力で獲得し、財を成す。モデルとも言える偉業も、自分で考え、社会を洞察し、先行的に行動することが、生きるうえで最重要であると感じた。

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