いずものブログ

自分の考えを残したいです

活路が見えないという、思い込み

仕事の目的は、本質的には、食べること、寝ることだと思うのだけれど、僕の場合は社内評価があげることだ。しかし、現実は違い、社内評価は下がる一方に思える。とりわけ、期末は期首に掲げた目標が達成できない現実が露呈し、理想と現実のギャップに押し潰されそうになっている。昇進レースの周回遅れの光景が脳に浮かんでいる。

どうすれば楽しく仕事ができ、納得感のある人生を過ごすことができるのだろう。

 

仕事が嫌い

僕にとっての職場は、自己実現ができない不要な空間と言える。上司の評価も普通かやや劣るのみ。僕は利用価値がない。石ころ、ゴミのような存在と評価されている。意見も合わない。仕事が好きな人などいるのだろうかとつくづく思う。無理に仕事を複雑にしようとする周り。自分の時間を奪い、目的もなく人を操作しようとする周り。同じ事をするものを評価し、外れたものは強制する考え方。どんな自信がこの考え方を形成しているのかは分からないけれど、同調意識から来るのだろう。お金がほしいのだろう。同調というつまらないことに拘り続ける意識。目的を複雑化し、本当の目的を実行させようとせず、意味のない趣味を強要する周り。この不満が不信感を増幅させて、嫌いという感情、憎しみ、恨みという感情が根差していると思う。人生の無駄こそ意味のないものはない。意味のないことを無理強いするこの環境が嫌いなのだと思う。

 

こうやって考えを巡らすと現実が心から嫌いになる。何もかもがうまくいかないように思える。一方で周りは何もかもうまくいっているように思える。僕だけ別世界にいるようで、僕だけ奇怪なもののようで、生き苦しい。何もかも消してしまいたい。僕は鬱なのだろう。何もかもにイラつき、怯えている。認めてくれもしないこの世界を恨んでいる。思い通りにならない現実。うまくいかない現実。カオス。混沌した世界が頭の中を張り巡らしている。そんな、感情が根底で荒れ狂っている。

 

今日から

変わろうとしない限りは変わらない。待っていても、何も変わらない。知ろうとしない限り知識が備わらないように、変わらないことを選択したから、何も変わらない僕がいる。抜け出したいなら、変わるしかない。周りは変えることはできないのも、真実だ。

前向きに生きるには

見たくない現実

10月といえば、社内人事異動の告知。昇進した人の発表会だ。相変わらず悲しいことに後輩がどんどん昇進している。それを見る度に憂鬱になり、自分の仕事や生き方を自分に問いかける。でも、いつも同じで、ふさぎこんで終わり。妬んで恨んで、妬んで恨んで…、悲観して。この話題も疲れて疲れて嫌だ。妬んでも、恨んでも、相手や周りは変わることないのに、その希望?にすがるしかない自分が嫌いだ。では、どうすれば楽になれるのだろう?

 

現実と僕

値札のない自分には価値がなく、生きる価値さえも自分で意識することができない。会社の面談では、何も進んでいない現実を振り返り前向きな言葉がでない。準備で終わった仕事は準備前と何ら変わってないのだから、成果は出ていないから無駄だってことになる。浪費した時間が無駄だからだ。当然意見も合わない。周りの連中の思惑にはまりたくない。自分が納得した人生は実現できるのか?と憤りを感じる一方で値札のない自分は生きていけるのかと不満が積もる。

 

そんな不満を解消するために本やラジオを見たり聞いたりする。確かに肉声を知るのは分かった気持ちになれる。楽になった気がする。解決できたような幻想にかられる。現実は変わってない。現実は変わらない。現実を変えることはできないのが、本当のところではないだろうか。周りが僕を置いてきぼりにして、どんどん進んでいるこの現実に憤りも感じながらも、虚無感を感じる。どうしようもないんだなって。途方にくれる。どうしたかったんだろうって。

 

変えられるのは自分だけ

誰にどうこう言われようと、現実が反転しても、その状況に流されても抗えても、自分でしかない。受けとるのも、感じるのも自分。自分の人生でしかない。でもと思うのは、自分の行動を何に照合しているかだ。信念、理念ならよいけれど、怠け癖からくる邪念もある。信念とはなんだろう。それを形成するほど考え尽くしていないから、僕は変わってないと思う。

 

 

受動的自分

仕事を早く覚えたり、行動したりする姿勢として、能動的態度がよいとされている。指示で行動する前に、自分で考えてクリティカルパスを自分で描けるよう訓練するためだ。効率を上げるには、事象を経験的な感性だけではなく、定量的に解釈し、効果を見極めることで、最短で目標を達成できる道筋を描けると思う。

 

仕事だけではなく、人生も多分に漏れない。この40年あまりを振り替えってみると、成果はない。何も自分をリバイスできていない。自信もないし、武器もない。生きる存在意義を感じられない。無力、無駄な存在と言える。そうやって考えると、なぜ生きているのに進捗も進歩もないのかと、悲しく辛くなってしまう。

ゴミ箱の絡まった毛糸をほぐしては絡め、誰も必要のない作業に人生を浪費しているのだ。

人生は短く、細く、脆く、不穏だ。

自分の人生のはずなのに、操縦席には別人がいつも座っている。こんな人生なら離脱したい。それを決めるのは自分しかいない。

子供対象のお仕事体験会

少子化で国内の人手不足が課題となっている中、地方の島根県も同じ課題がある。とりわけ人口が少ないこの県では、人手不足は県経済の衰退に繋がる大きな課題だろう。

一方で、画一的な生き方ではなく、多様な生き方を目指す社会風土が少しずつ地方にも芽生え始めている。親は子供に期待してしまうのは、いつでも変わらない。

外は豪雨。大人も子供も遊び場所の無い島根県。遊び場を求めにやって来た親子も集まり、子供達のお仕事体験会が始まった。

 

参加した感想。僕は満足。良いイベントだったと思う。しかし、残念なところもあった。

 

1)世界観が不明瞭

子供だけの街。そんな街を会場に作り、子供達が主役になって仕事をこなす。仕事の役割を通じて、職業に興味を持ってもらう。イベント後に知ったのだけれど、このイベントの対象は小学生4~6年生。しかし、肝心のお仕事のやり方、受け付け時間まで、子供用のものはなし。主催者の世界観を唯一守る大人が入ってはいけないキッズワールドの境界線も床に貼られたテープだったので、開始直後に越境されてしまった。受け付けではこのルールを厳守するような教示もないし、各ブースもそのような配慮も無い。管理するスタッフも少なく、会場は親子でごった返していた。

 

2)相互の目的に違い

子供の街で使える仮想の通貨ナルク。お仕事すると、報酬として作業時間×10のナルクが貰えた。このお金を使って子供の街で買い物をして、働く意味を知ってもらう、そんな趣旨だと思う。実際は親子に別れて三時間待ちの行列に並び、イベント終了1時間前にはナルクで買える商品も少なくなり、会場は混沌としていた。お金が紙切れになってしまうのだから、主催者への不満を爆発しながら親子とも必死に並んでいた姿が残念だった。主催者はどのように捉えているのだろう。

 

自分ならこうしたい。

1)世界観の目的を明確にする

子供の街の世界観は共感できる。子供に職務に触れて業界を選択して欲しい企業と子供に未来を意識して欲しい親の感情が一致していたから、事前申込みに1500円掛かるにも関わらず、1000人の定員はいっぱいになったと思う。ところが、本来は小学4年生以上が対象のイベントは3年生以下の子も多量に参加し、二倍の人数になったんじゃないだろうか。子供の街の通貨ナルクも、ものすごく発行したのだと思う。このイベントの目的は仕事を選択する思考を定着させること。定着の手段に子供の街の構想を加算したはず。ところが、保護者はそうではなかった。イベントの開始早々、子供の街に入って孫にカメラを向けていたおじいさんが印象に残っている。大半の保護者は小学生に何が分かるかと言う姿勢だったのだろう。もちろん遊びから子供が興味を持ってくれる場合もあると思うけれど、保護者はもっとイベントの目的と子供の未来を考えて参加するべきだったと思う。

 

2)企業の意識に緊張感を

子供相手だから教えて行動を促すだけで労力だったかもしれない。確かにある程度の年齢を越えないと子供は言うことを聞かない。何をしていいか分からなくなってしまう。だから、子供が自発的に行動できる仕掛けが必要だった。看板の高さ、文字の大きさ、フォント、分かりやすい説明、楽しそうな雰囲気、楽しそうな音楽。サービス力をいかんなく発揮できるばだったはず。保護者も来ているのだから、サービスを監視されていると思わなかったのだろうか。良い機会と思っていれば、子供を三時間待たせるなんて考えず、臨機応変に対応して回転率を上げていたはずただ。唯一、農場のプリンやさんは、玉子の自社広告に事前に受け付けたかを書いて、イベント開始前に提示すればOKという神対応を実施されていた。これなら待ち時間は自由だ。自社を売り込みながら、好きになってもらう。本当にすごい。就職したくなった。若い女性の機転が光っていた。

 

1人1500円で参加できるイベント。参加費も安く、子供は貴重な体験ができてイベントとしては、大成功だっただろう。恐らく参加者も想定以上で収支も黒字だったに違いないと思う。一方でリピーターは少ないと思われる。頑張って稼いだお金の使い宛がなくなってしまいそうになったのだから、タダ働きされそうになったと思った親子もいただろう。

 

個人的にはとても楽しめた。次回参加するときは飴とおにぎり、飲み物を事前準備して望みたい。

 

無関心

この夏の災害は大きいものが続いている。あれだけテレビやSNSで実情が報道されていても、何もしていない。何もしていない自分達が何もなかったように、何も意見を言わず、暮らしている。

 

背徳感を持ちながら目の前のどうでもいいことを処理することに慣れ、情けない。素直に笑えない、生きれない。こんなに大切なことにも関わらず、忘れてしまう。毎年のように災害が発生、悲惨な状況を見ていても忘れてしまう。興味がないからだ。

 

興味の深度を行動水準で考えてみる。例えば習慣化されたものの深度が高いとすると、ボランティアは深度は浅い。情報は耳にしているが全く行動していない。歯磨きとボランティアを天秤にかけるのは変だけど、虫歯防止が今の自分にとっては重要であり、緊急事態に繋がるのだろう。歯がないことのが不便なのは想像できる。一方ボランティアは想像できない。体験したことがないのだから。きれい事を言っても、自分の生活には必要ないと判断している。その事実が物悲しい。子供の時になりたくない大人になっている。自分で自分を感化している。誰もしてないからって、どうしていいか分からないっからって。どんな災害が起きてもいつでも同じ。

 

昼休憩にコーヒーを買う金があるなら、募金すればいい。ただそれだけ。自己満足と言われても、自分の意思に正直になれば気を病まない。このまま、ボランティアやるやる詐欺を続けるなんて耐えられない。何かできる。自分を律しよう。

島根の価値

『距離感以上の疲労感』

先日島根から福井に出張で移動した。特急やくも→新幹線のぞみ→特急サンダーバード。12:30に出雲を出発し、福井に18:30につくと言う6時間の長丁場。出雲空港と繋がる空港は、東京、大阪、福岡、名古屋(小牧)、静岡、仙台、隠岐(島根)のようで、それらの沿線に住んでいない方は、電車か車などを利用して、島根に向かわれるはず。ツアーなどで観光バスを利用する方も多いと思うので、各々で疲労感は違うと思うけど、僕は電車移動でもうろうとした。個人の体調によるのかもしれないけれど、目をつむると脳が揺れるようで、ふらついた。
特急やくもの洗礼だ。こうなると電車移動はお勧めできない。

県外から島根に来て欲しいのだけど、余程の魅力が無い限りは、電車で行きたいとは思わないんじゃないんだろうか。僕が特急やくもに乗るのを躊躇するのだから。

『何が悪い』

先の特急やくもの乗り心地や他県から移動時間が、島根に来るリピーターや新規顧客を呼び込む足かせになっているなら、交通網を整備するのが、重要課題。

例えば、福井県は関西圏に近いし、北陸新幹線が停まる予定となっている。なんだかこれだけでも島根県は太刀打ちできない感じが否めないのだけど、すでに交通網が整備されている四国四県が栄えているのだろうか。四国には三つ橋がある。広島、岡山、関西と繋がっており、四国四県はそれぞれで魅力ある県だ。でも、島根の僕は近いから行きたいとはならない。

高速道路が無料の期間があったけど、あの時の利用者のうち、どれだけの人が島根のリピーターとなってくれているだろうか。

島根の魅力を市場を意識したものに変化し続ければ、交通網整備の一辺倒の改善でない、新たな島根を伝え、島根独自で栄えることができると思う。

『どうやって島根に振り向いてもらうか』

島根は金、人がない。島根の街はまだ人がいるかもしれない。でも、貯蓄の風土が浸透していて、旧来型で保守的な社会の島根。僕が東京ビッグサイト(東京の人からすれば何も無いところ)で、都会にたまげて恐ろしくなったように、都市部から島根を想像し、自発的に行ってみたい、住んでみたいと思う人なんて、世界にいるのだろうか。



現金の効能

このところ、現金を使用しないようにしている。妻は、現金の出し入れでお金の流れを把握したいようだけど、時間の無駄だと思う。妻にそう言っても、とりつく島もない。なんで、こんなに便利なサービスを活用しないのかな?

 

小学校の教材、給食費など全て現金で徴収している。集金袋にお金を入れて子供が小学校に持っていくのだけど、今、なぜ??

子供に現金を持たせると、ちょっとした事件に会ったり、使ってしまったりするかもしれないし、先生も現金の回収、精算の教育とは別の無駄な仕事に浪費してしまう

 

なんで、こんな時代錯誤な事がまかり通っているのかと考えでみると、少数の反対意見を無理に救おうとする非効率な体制のせいだと思う。現金を使用しないことで生まれる膨大な利潤を得るために、一人一台スマホ、完全通信費無料化をしてほしい。税金で払っていいと思う。